福祉の充実が排外主義につながらない社会への問い

石橋秀仁 (Hideto Ishibashi)
5 min readMay 14, 2020

もしセイフティ・ネットが排斥運動や排外主義と結びつかないような形で実現できるなら、それこそ「具体的な連帯」の社会ビジョンになりうるのではないだろうか。しかし、そんなことは可能なのだろうか。生活保護が叩かれ続け、捕捉率が2割程度に留まる(もらう資格があるほど貧しいのにもらっていない人が8割ほどもいる)日本においては。

社会保障財源を「我々が負担している」と思い、「奴らは我が国の社会保障制度にただ乗りしており、許せない」と考える国民がいる。その「義憤」の矛先は在留外国人へと向かう。

社会保障制度については、「もらう資格があるのは誰で、資格がないのは誰か」というメンバーシップの問いが避けられない。それは社会の連帯を壊し、分断へと誘う。

例えば、在日外国人に対する「生活保護もらうな」ヘイトスピーチがある。小野田紀美参議院議員は「外国人の生活保護は違法」なるデマツイートしている。

生活保護ですらこれなのだから、昨今期待が高まりつつあるベーシック・インカム制度を導入すれば一体どうなるか。火を見るより明らかだ。

既成政党が福祉や雇用を守れないことに不満を募らせた人々は、右翼政党を支持するようになった。現在の右翼政党は福祉を守ろうとする一方、移民は福祉に「ただ乗り」しているとして、排斥を訴える。福祉防衛と移民排斥を組み合わせる考え方は福祉排外主義と呼ばれ、人々の間に壁を作る。

もし国民国家の中に一人も外国人がいなければ、このような問題は起こりえない。しかし、言うまでもないことだが、あらゆる近代国家はそのような条件から外れている。我々の社会はグローバルな交易によって存立している。

(※ここでの議論の対象は、近代的な社会保障制度を持ちつつ、他国との交易によって存立している国家である。そうでないもの、例えば排外的・閉鎖的な国家、あるいは国境を横断した独自の社会制度を持つ社会集団などについては、議論の対象外である。なお、会田誠の『国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ』という作品は、現代における反グローバリズムの究極形態である「全世界同時鎖国」というコンセプトを投げかけている)

福祉を充実すると排外主義が強まる。これは国民国家が抱える根本的な二律背反だと言える。とても簡単に解ける問題ではない。ただ、そもそもの前提から考え直すことで、解決の糸口が見えてくるかもしれない。文明論的な問題として捉え直してみたい。

近代的な社会保障制度の原則は「法の下の平等」に基づいている。また、「単に人間であるということだけに基づく普遍的権利」としての「人権」という観念が基礎にある。それによって国民の最低限度の生活水準を保障するのが生活保護制度だ。また、その一層ラディカルな形態が「全員一律」のベーシック・インカムである。

これは「人権」という概念を発明し、市民革命を成し遂げたヨーロッパの考え方だ。もっと遡れば「神の下の平等」という一神教の考え方だ。

では日本はどうだろうか。もちろん一神教が社会の支配的な信仰になったことなどない。文明論的に言って、ヨーロッパと日本では人々の行動原理の根本(エートス)が異なっている。

日本においては「非ヨーロッパ的」な社会保障の原理を考えることもできるはずだし、そうする必要があるのではないだろうか。そういう出発点から社会保障制度について考えていくことができないだろうか。

ただし、このような問いかけは誤解を招きやすい。人権を否定するのか、平等を否定するのか、というわけだ。もちろん、そういうことが言いたいわけではない。むしろ「人権」や「平等」というヨーロッパの概念を、いかに日本に適した形で再定義するかという問題に取り組む必要があると言いたいのだ。

これを議論の出発点として、これから考えていきたい。この観点で、「京都学派リバイバル」に期待したい。

2017年に下記の文章を書いた頃から引き続いている問題意識:

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石橋秀仁 (Hideto Ishibashi)

ソフトウェア開発者/情報アーキテクト(IA)/アート・ファン https://hideishi.com