「LGBT差別を許容したい」という文章への批判

株式会社レアジョブ会長の加藤智久氏による「LGBT差別を許容したい」という文章について。内面→言動→影響のプロセスが区別されていないし、構造的暴力といった観点もないし論外です。「文章が下手なだけなのかな」といった好意的な解釈をする気もありません。はてなブックマークでも多数の問題点が指摘されてます。

とくに問題なのは「差別を許容する」という言葉において「差別的思想」と「差別的言動」の区別がついていないようにしか読めないところです。「差別的思想の禁止」と「差別的言動の禁止」はまったく異なります

人間の内面は何人(なんぴと)たりとも犯してはならない「聖域」とされており、これは近代憲法で基本的な人権として保障されています。考えるだけならば、何を考えようが自由です。しかしその考え(思想)を言動として表出することには「社会的に許される限度」があります。その限度を超える言動は法によって規制されることがありますし、そのような言動をした者には法にもとづいて罰が与えられることもあります。

近代社会は「差別的な思想であってもそれを持つことを許容する」という意味では「寛容」かもしれません。しかし、被差別者の自由を侵害するような差別的言動には「不寛容」です。この区別を理解しなければなりません。

なぜ差別的言動を許容してはならないのか。それは差別が被差別者の自由を奪うからです。加藤氏はこのことを理解できていないようです。加藤氏は「もし自社の職場にLGBT差別があったら経営者としてどう判断するか」という想定のもとで「差別をする側も、される側も同様に許容し応援したい」と言います。しかし差別を許容した時点で被差別者は精神的苦痛を感じながら働かなければならなくなります。とても「同様に応援」したとは言えなくなるのです。

加藤氏は「そもそも差別というのは、論理的でない理由、所属する組織の目的に関係ない理由で、人を不快にする行為だと思う」とも書いています。根本的に「差別」についての理解が足りないと言わざるをえません。差別的言動は被差別者から自由を奪う暴力です。「差別的言動を許容する職場」とは「暴力によって自由を奪うことを許容する職場」を意味します。それがどれほど不公平・不正義(injustice)か、これ以上の説明が必要でしょうか。

この際リベラリズムにおける「自由」の概念についても説明しておきます。古典的な自由主義は「自由放任」を旨としていましたが、現代的な自由主義では「一部の人の自由を奪うような構造的問題があるときに、政府はその問題に積極的に介入し解決すべきである」と考えます。つまり現代的なリベラルは構造的暴力を放置(自由放任)しません

アメリカ合衆国連邦最高裁判所が同性婚を認めた(同性婚を禁じる州法を違憲とした)ことも、現代的リベラリズムのコンテキストで理解されなければなりません。つまり「構造的暴力の解決に国家権力が積極的に介入した事例」だということです。

「LGBTに理解のあるリベラル」を気取るなら、こういうことを理解していなければなりません。

準高等遊民からは以上です。

情報アーキテクト(IA) hideishi.com

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