強欲的な資本主義から脱するために何を考えればいいか

技術一元論的な文化(つまりヨーロッパ)は、地球を「利用可能な資源」としかみなさず、環境破壊を省みない文化なのだという。技術の多様化とは、自然と共存できる非ヨーロッパ的な文化を、この地球上に増やしていくことを意味する。

「具体的な連帯」は、技術一元論的な文化の悪い競争(悪い無限)から降りることを可能にする。儒教風に言えば「知足」(老子「足るを知る者は富む」)だろうか。

ここでの問題は、「悪質な競争」がナッシュ均衡になっていて、「自分だけ降りると死ぬから、降りることができない」という状況だ。どうすればそれを変えられるか。「里山資本主義」や「風の谷」が解にはなるとは思えない。少なくとも僕にとっては魅力的な選択肢ではない。

僕なりにぼんやり考えるのは次のようなことだ。

個人(労働者)が、「黒字で回っている自営業者」のように、経済的主体として自立すること。それによって個人的な自由を拡大していくこと。経済的基盤ができた上で、それ以上無闇に稼ぐ必要もないという「知足」に至り、「悪い競争」から降りられるという道筋。

ここでのポイントは、経済的自立を企業単位ではなく個人単位で考えること。それによって資本主義的な際限なき利潤追求の(悪い)競争から降りられる状態を目指す戦略だ。

ここで「自営業者」を理念型として、市場経済を否定せず、自力救済(黒字経営)を規範として求めるのは、いかにもリバタリアン的な「競争肯定」に見えるかもしれない。それは半分正しいが、半分間違っていると思う。

企業ならともかく、個人で「無限に儲けたい」と思っている人がどれくらいいるのだろうか。なにしろ大抵の人は、年収800万円を超えると、年収がそれ以上に増えても幸福度がそれほど上がらなくなると言うではないか。

要するに僕は自由市場経済体制における「悪い無限」の問題は、おおかた企業という資本主義装置が引き起こしていると思っているのだ。「悪くない競争」「有限の競争」というものがある。競争の主体が企業から個人に移ればそうなる。「勝者総取り」のような苛烈な市場競争から、もっとマイルドな(ぬるい)市場競争になるだろう。

そもそも市場競争そのものは悪くない。経済学者が言うように、競争があるから経済主体は試行錯誤し、資源がよりよく活用され、富が生み出されるのだ。ここでの問題は、富の偏り、経済格差、そして再分配だが、その話はまた後ほどする。

「悪くない競争」が実現すれば、程々の仕事量でまともな報酬が得られる。もっと格差の小さい(ジニ係数の低い)社会になる。市場競争の結果として生じる格差が小さければ、再分配すべき富の比率も低くなる。つまり福祉国家的な大きな政府でなくともセイフティ・ネットを用意できるのではないか。そもそも日本社会は伝統的に経済格差が比較的小さい社会だったはずだ。そして小さな政府でもあった。そういう歴史的実績を踏まえれば、決して不可能なビジョンではないと思う。

このような「悪くない競争」の「まともな自由主義市場経済体制」を夢見ている。

念のため言っておくと、僕は経済主体としての企業をまったく否定しておらず、あくまで企業経済に対するオルタナティブとしての個人経済の領域を拡大したいのにすぎない。その際に個人が否応なく競争に巻きこれることがないようにしなければならない。なにせ最大の問題は「自分だけ降りると死ぬから、降りることができない」という状況なのだから。そのためには、今よりも強く市場独占を規制し、市場競争の公平性を担保するための仕組みが必要になるだろう。

個人が自営業者的な経済主体となる手段は、なにも独立開業や副業・複業だけではない。「社内取引」と「個人採算性」という装置を導入することで、従業員もまた社内経済圏の中で独立した「一自営業者」であるかのように主体的かつ自由に働くことができる。これが僕の考え方であり、10年以上の経営実践でもある。

さて、市場経済における個人の領域を拡大できたとしよう。しかし、それだけではまだ足りない。競争に勝てない人も死なないためのセイフティ・ネットが必要となる。これはとても大きな課題だ。セイフティ・ネットは常にメンバーシップ問題=誰が受給資格を持つかをめぐる排斥運動につながる。まさに今のコロナ禍においても外国人に対して「生活保護もらうな」というヘイトスピーチがあったと報道されている。

もしセイフティ・ネットが排斥運動や排外主義と結びつかないような形で実現できるなら、それこそ「具体的な連帯」の社会ビジョンになりうるのではないだろうか。しかし、そんなことは可能なのだろうか。生活保護が叩かれ続け、捕捉率が2割程度に留まる(もらう資格があるほど貧しいのにもらっていない人が8割ほどもいる)日本においては。

これもまた技術一元論的な誤謬なのかもしれない。日本の宇宙技芸としての社会保障制度がいまだ実現していないことが問題なのだ、と考えることはできないだろうか。近代的で西洋的な生活保障制度とは別の何か。それは来るべきものなのか。あるいは、かつてあったものなのか。そういえば東島誠『〈つながり〉の精神史』は示唆的な本だった。長い日本の歴史を踏まえた、日本の宇宙論にねざした宇宙技芸としての社会保障制度とは……そんなことを考えている。

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ソフトウェア開発者/情報アーキテクト(IA)/アート・ファン https://hideishi.com

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