ベーシック・インカムと市場原理主義
[本稿執筆後、ベーシックインカム懐疑論者に転向した。詳しくは末尾へ]
自由人にとって政府とは一つの道具や手段にほかならず、何か施しをしてくれるやさしい庇護者でもなければ、敬い仕えねばならない主人 でもない。また国家の目標も、一人ひとりの目標の集合体としてしか認めない。 — ミルトン・フリードマン(『資本主義と自由』)
私の政治思想では「セイフティネットや機会の平等を重視するリベラル的な側面」と「市場原理を重視しつつ結果としての経済格差も許容するリバタリアン的な側面」が併存しています。
これは奇妙に見えるかもしれません。というのも、一般的には、リベラリズムとリバタリアニズムは矛盾すると思われているからです。
しかし、リベラリズムとリバタリアニズムそれぞれの弱点を補う形で、「新しい政治思想」に昇華させることができるのだ、というのが私の主張です。それを可能にするカギは、ベーシック・インカム制度です。
この説明は、最終的に「福祉と競争のポジティブ・スパイラルで、日本は再び未来に希望を持てる社会になる」というビジョンで締めくくられます。
リベラリズムとリバタリアニズム
まずは基本的な概念の説明です。ご存知の方は読み飛ばしてください。
リベラリズムは「自由主義」と訳されることがある政治思想です。近年は福祉を通じた「積極的自由」を重んじる政治思想を意味します。貧困は「不自由」であり、福祉で解消されなければならない、というように考えます。このような「自由」の概念は、次に述べるリバタリアニズムの「自由」の概念とは対立します。
リバタリアニズムは「自由至上主義」とも訳される政治思想で、古典的な自由主義です。「徴税は国家による私有財産権への侵害である」といった風に考えます。つまり、国家による福祉のような「積極的自由」には否定的で、「消極的自由」を重んじます。
いずれも基本的には「自由」を重んじる点で共通しています。しかし、決定的に相容れない部分もあるとされています。したがって「私はリベラルかつリバタリアンです」という宣言は、一般的には意味不明とされます。
ノーラン・チャート
ノーラン・チャートという図があります。それに少し手を加えたものが下図です。
ノーラン・チャートは「経済的自由」と「個人的自由」という2つの軸からなります。
「個人的自由」という言葉は、思想・信条・ライフスタイルなどの個人的な問題についての自由度を意味します。これを「政治的自由」と言い換えることもできます。例えば「国歌斉唱の際に起立しない教師を罰する」「小学校で愛国教育をする」「同性婚を認めない」「夫婦別姓を認めない」といった社会は、そうでない社会よりも個人的自由を制限している社会です。リベラリズムとリバタリアニズムは、共に個人的自由を重んじます。(※ノーラン・チャートでは上半分になります)
経済的自由という言葉は、経済活動に関する自由度を意味します。例えば、私有財産を認めない社会主義国家には「経済的自由がない」と考えます。一方、徴税のない無政府社会は「経済的に自由である」と考えます。現実にはそのような両極端ではありえませんが。また、税金以外の側面もあります。例えば取引の強制や、政府による独占です。その代表は専売公社です。リバタリアニズムは経済的自由を重視しますが、リベラルはそれほど重視しません。政府による福祉や再分配を重視するということは、そのための徴税も認めることになるからです。
さて、本論に入ります。
高い国民負担率もリバタリアニズムに反しない
私は高い国民負担率を経済的不自由だと思いません。これは、リバタリアンとしては「異端」の主張になるかと思いますが。(※国民負担率とは、租税負担率と社会保障負担率の合計。財務省が発表した平成26年度の国民負担率は41.6%)
税金の大半を政府自身が使うのではなく、逆に大半を個人や世帯に直接現金やバウチャーの形で再分配するならば、人々の経済的自由は守られる、というのが私の考えです。
政府には金を賢く使う能力がない
「政府には金を賢く使う能力がない」というのがリバタリアンの考え方です。そしてその考えは正しいと思います。ですから、徴収した税金を、ふたたび個人に分配する(つまり「再分配」する)ことによって人々に自由に使わせればいいのです。
政策が依って立つ価値観は、当事者の価値観ではなくて、第三者の価値観なのだ。だから「これこれが諸君のためになる」と押し付けたり、「誰かから取り上げて別の誰かにあげる」ようなことになる。し かしこのような政策は、反撃を食う。人類が持っている最も強力で創造的な力の一つ、すなわち何百何千万の人々が自己の利益を追求する力、自己の価値観にしたがって生きようとする力の反撃に遭うのである。政府の施策がこうもたびたび正反対の結果を招く最大の原因は、ここにある。この力こそは自由社会が持つ大きな強みの一つであり、政府がいくら規制しようとしてもけっして抑えることはできない。 — ミルトン・フリードマン(『資本主義と自由』)
政府自身が金を使うべき領域は、経済学によって正当化しやすい領域に極小化されるべきだと考えます。具体的には自然独占になりやすいインフラ系の公共事業などは、正当化しやすいでしょう。一方、年金事業は失敗すべくして失敗していると考えます。そういう事業は国家が運営すべきでないと考えます。
政府には金を賢く使う能力がないから、政府自身が使う金は少なくすべきである、と私は考えます。しかし、私は高い国民負担率(租税負担率+社会保障負担率)に必ずしも反対ではありません。ここでの論点は「再分配」です。
政府だけに再分配の能力がある
政府だけが徴税と再分配によって所得格差を是正できます。私は再分配が重要だと考えますので、そのための徴税にも反対しません。
政府に十分な予算を与えつつ、政府自身の裁量ではそれを使わせず、機械的に公平に再分配させる。これが私の考える「理想の政府像」です。いわば「高い国民負担率で、強い再分配を行う、小さな政府」だと言えます。
「機械的再分配」とは、ミーンズテストのない分配制度のことです。「ミーンズテスト」とは、役人による裁量的な資格審査のことです。生活保護の「水際作戦」はその負の面の発露であり、それが最も残酷な形で現れたのが、生活保護を打ち切られた人が「おにぎり食べたい」と書き残して死亡した事件です。
このようなミーンズテストのない再分配制度としては、例えば、負の所得税やベーシック・インカムのような制度があります。子ども手当もそれに準ずる制度です。また、育児や教育や医療に使えるバウチャー(引換券)や、学費の無料化などの制度にもミーンズテスト(裁量的な資格審査)が不要ですから、広い意味での「機械的再分配」だと言えます。
機械的再分配はまた、個人に対する直接の再分配になっている必要があります。例えば認可保育園のような仕組みは「事業者を通じた再分配」と言えますが、これは癒着の温床になりがちであったり、市場メカニズムを活かせず供給不足や供給過多になりがちです。したがって、再分配は企業を通じず、直接個人や世帯に対してなされるべきです。
古いリバタリアンの「経済的自由」概念に疑問
「高い国民負担率で、強い再分配を行う、小さな政府」は一見矛盾していると感じられるかもしれません。とくにリバタリアンにとっては。それが狙いです。
私は従来のリバタリアンの考える「経済的自由」や「小さな政府」という概念がおかしいと考えています。端的に言えば、徴税ではなく歳出を見るべきなのです。政府の「小ささ」は「政府自身が使う金額」(つまり公的支出から社会保障を除いた分)において測るべきだ、というのが私の考えです。
結局、これまでのリバタリアンは、税金を納めたくない金持ちの論理と結び付いてたんです。それではダメです。「トリクルダウン理論」は幻想でした。所得格差の是正は今世紀のイシューです。だからピケティが流行っているわけです。
少なくともここ日本においては「自主的な寄付などによる民間での再分配が機能すれば、政府による社会保障など不要」とかいうリバタリアンの空想的な理論には誰も耳を貸しません。いまどきそんなことを言ってるから一部のリバタリアンは「論外扱い」されるのです。
リバタリアンも経済的格差の解消について現実的なプランを語らなければならない時代になってるはずです。盲信的に徴税に抵抗してるだけでは説得力がありません。「税金払いたくねえ」とダダをこねているだけに見られて終わりです。
いまこそリバタリアンは「徴税への抵抗」から「歳出の公平化」へと争点を移すべきです。「ミーンズテストのない機械的再分配を増やすことで、経済的自由度の高い社会になる」という主張へとシフトすべきです。
リバタリアンも「もっと税金を上げてくれ」と主張すべき時代です。そして、これは実際に欧米の大富豪たちが言い出してることでもあります。実際に世の中はそちらの方向に向かっていく可能性が高まってきました。
ベーシック・インカムのリアリティ
例えば、国民負担率が80%の「重税国家」になるとしましょう。そこから現金かバウチャーで国民に直接再分配される率が60%だとします。そのとき政府自身が使う金は、国内総生産の80%×(100%-60%)=32% です。これは現実的な数字です。社会保障を除けば、日本の公的部門は国民経済の2〜3割の規模です。
そして、残りの80%×60%=48%という数字は、「すべての国民に毎年200万円のベーシック・インカムを提供できる財源」を意味します。
(※年金や子ども手当を廃止して、ベーシック・インカムに一本化する前提です。0歳の新生児から100歳を超える老人まで、すべての国民に平等に支給されます。4人世帯なら4人分です)
(※この議論の本題ではありませんが、「年金を廃止してベーシック・インカムに移行すること」は、「解決不可能」とも思える年金問題の「最終解決策」になりえるのではないでしょうか)
労働のインセンティブについて心配する人もいることでしょう。働かなくても食べられるとしたら、働かない人が増えてしまい、福祉財源となる税収が不足して、制度が破綻するのではないかと。しかし、「負の所得税」や「給付付き税額控除」では労働のインセンティブをそがずにベーシック・インカム的な再分配が可能となります。
(※このような制度は「税と社会保障の一本化」を実現する上でのシンプルな解決策ですし、マイナンバーの導入によって一層実現可能性が増していると考えています)
正義としての社会保障
現代の日本社会には、「おにぎり食べたい」と書き残して亡くなった人がいる。このような痛ましい事件を根絶できるとしたら、税率80%を受け入れる価値があるとは思いませんか?
生活保護の「水際作戦」などという残酷で非道な行いが、一日も早く根絶されてほしいと思います。飢えて死ぬとか、治療を受けられずに死ぬとか、そういう残酷さから人類は解放されるべきだと思います。
リベラルな福祉と、リバタリアンな経済競争は、矛盾しない
ベーシック・インカムのようなセイフティネットが実現すれば、経済はハイパー競争主義になることができます。いまの日本社会では企業が社会保障を担わされていますが、その必要は無くなります。解雇規制は緩和し、最低賃金規制も緩和し、市場の規制をどんどん撤廃できるでしょう。それによって起業家がイノベーションに取り組みやすくなるでしょう。企業が競争的な市場で自由に活動できる「経済的自由の大きな社会」になります。
また、強い再分配は景気を良くするはずです。低所得者層に再分配すれば、それは貯蓄ではなく消費に回ります。いまの日本では将来への不安から低所得者層も貯蓄しがちですが、セイフティネットが貯蓄性向を下げるはずです。つまり再分配は国民全体の消費を増やし、景気を上向かせるはずです。
リベラルな福祉が、リバタリアンなハイパー競争市場を可能にします。市場で稼げるからこそ福祉に十分な金を使えますし、福祉が充実すれば人々は解雇や倒産を恐れずチャレンジできます。福祉と競争のポジティブ・スパイラルで、日本は再び未来に希望を持てる社会になるでしょう。
リベラル・アイロニストの希望
最後に、リチャード・ローティの言葉でこの文章を締めましょう。難しい文章なので、逐次解説します:
私は「リベラル」という言葉の定義をジュディス・シュクラーから借りている。シュクラーの謂いによれば、残酷さこそ私たちがなしうる最悪のことだと考える人々が、リベラルである。
「残酷なこと」こそ人間がもっとも回避すべき悪である。そう考える人が、ローティの考える「リベラル」です。
私は、自分にとって最も重要な信念や欲求の偶然性に直面する類の人物 — — つまりそうした重要な信念や欲求は、時間と偶然の範囲を超えた何ものかに関連しているのだ、という考えを棄て去るほどに歴史主義的(ヒストリシスト)で唯名論的(ノミナリスト)な人 — — を、「アイロニスト」と名づけている。
アイロニストは「必然性」も「真理」も信じません。すべては「個人的な信念」に過ぎないと考えます。
「歴史主義的」とは、「必然性を信じない」ということ。歴史の本質は「経路依存性」であって、現在に至る歴史はすべて「偶然の積み重ね」に過ぎないのだから、現在の世界の何一つとして「必然のもの」など存在しないのだという考え方です。
「唯名論的」とは、「真理を信じない」ということ。「自分に認識できるものだけが世界のすべてなのであって、その認識の向こう側に世界の真理などといったものはない」という考え方です。もし互いに異なる「真理」を信じる人々が出会えば、そこに衝突が生じます。唯名論者はそのような信念衝突を避けることができます。
つまりアイロニストとは、自分にとって「必然」や「真理」のように感じられる重要な信念や欲求も、たまたま自分にとってそうであるにすぎない偶然の産物なのであって、それを他人と共有できるとは限らないし、正当化して押し付けることなどもってのほかである、という究極の諦念に達した人のことです。
リベラル・アイロニストとは、このような基礎づけえない欲求の一つとして、人が受ける苦しみは減少してゆくであろうという、そして人間存在が他の人間存在を辱めることをやめるかもしれないという、自らの希望を挙げる者のことである。 — リチャード・ローティ(『偶然性・アイロニー・連帯 リベラル・ユートピアの可能性』)
リベラルは「残酷さ」こそこの世で最悪のことだと考えます。その「残酷さ」がどんどん減っていってほしいと望んでいます。しかし、その希望は決して客観的に「基礎づけ」たり正当化したりすることはできない、とアイロニストなら考えます。なぜならアイロニストは「必然性」も「真理」も信じていないからです。
リベラル・アイロニストは、「残酷さ」がこの世から減り続けることを希望しますが、それはあくまでも「希望」なのであって、それを「必然である」とか「真理である」と称して人に押し付けたり、それに賛同しない人々に攻撃を加えるような態度を取りません。あくまで「個人的な信念」として希望を語り、共感の輪が広がることを期待します。
残酷な状況に置かれている「かわいそうな人達」がいることを知り、そのような人達に「憐れみ」の感情を向けることを通じてのみ、リベラルな人々は「この世の残酷さを減らすこと」という価値を共有し、連帯できる。これがリベラル・アイロニストの考え方です。
「おにぎり食べたい」餓死男性の周囲を取材した朝日新聞井上恵一朗記者のルポを読んでください。私は涙が止まりませんでした。
「おにぎり食べたい」の残酷さに感情移入する感性こそが、リベラル・アイロニストの連帯を可能にするのです。
この社会にリベラル・アイロニストが増えれば、いずれ政治は変わります。この社会の「残酷さ」を減らす方向に社会保障が充実していくことになるはずです。
この社会に一人でも多くのリベラル・アイロニストが生まれることを祈りつつ、この文章を終えます。
蛇足
この文章をインフォメーション・アーキテクトとして書きました。より詳しい文脈は「ロシア革命後の紙上建築家から学んだ、ユートピア建築の手法と倫理」という文章を読んで頂くことで明らかになるでしょう。
〔編注:2016年6月2日に「リベラル・アイロニスト」についての解説を加えました〕
トランプ時代を迎えて(2017年1月13日の追記)
この文章は2015年5月に書かれました。そして、この文章は日本について書かれました。当時から私の立場は「グローバルで普遍主義的なリベラル」ではありません。リベラルな差別撤廃や再分配の政策は、個々の国民国家の内部に限定されるものです。リベラルな政策は国民国家のメンバーシップにより境界づけられています。ですから、この文章で議論したベーシックインカムも、もちろん日本一国の内部での再分配の話です。私は「国境のない世界」「ひとつの世界」を夢想するタイプのリベラルではありません。
ところで、経済のグローバリゼーションを通じて、グローバルな経済格差は縮小した面があります。一部の後進国は自由貿易の恩恵で経済水準を高めました。これは「グローバルで普遍主義的なリベラル」にとっては言祝ぐべき「達成」です。しかし、グローバリゼーションは後進国の経済水準を高めた一方で、先進国内の下流層を相対的により貧しくした、という面もあります。これが先進国の内部に深刻な亀裂を育てました。2016年のBrexitやトランプ現象は、先進国の国民がグローバリゼーションへ「No」を突きつけた事件です。このような時代背景を踏まえたとき、剥き出しのグローバリゼーションから国民を守る「緩衝材」としての(例えばベーシックインカムのような)セイフティネットの必要性は改めて認識されるべきでしょう。
なお、この文章で展開した「セイフティネットを整備したうえで、経済競争はとことん競争的にしよう」という議論の延長で、2016年末に「日本人の低すぎる生産性と、IT打ち壊し百姓一揆」という文章を書きました。補助線を引いておきます。グローバリゼーションに「鎖国的」な保護主義で対抗することはできません。必要なのは、グローバリゼーションの局面に応じて産業構造を柔軟に転換し、生産性を高め、再分配の原資(税収)を稼ぐことです。とくに重要なのは、労働流動性を高めることと、職業(再)訓練の生涯化です。そのための「武器」としてITを活用しなければなりません。
私がベーシックインカム懐疑論者に転向した理由(2017年7月24日の追記)
『ゲンロン0 観光客の哲学』を読んでから、ベーシックインカムに批判的な立場に変わりました。依然として「残酷さ」を減らすための福祉制度の充実は必要だと考えますが、それは必ずしもベーシックインカム制度である必要はなく、既存のセイフティネットの拡充や、民間の自発的な寄附の流れを太くするような制度によって実現されるべきだと考えています。